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砂町の想い出/石原 国靖

 一九六九年春、卒業と同時に私は江東区北砂町のS車輌製作所に 労務担当として入社した。現場研修を命ぜられた私は、もう古くなった旧式の旋盤をあてがわられ、図面を見ながらピンを削る毎日が始まった。

 JR亀戸駅から明治通りを夢の島方向に向うと、境川交差点の手前に寿康会病院がある。その少し手前を左に折れると砂町銀座通りである。道幅、約四メートル位の両側に食料品やら衣料品やら、何やらビッシリ商店が並び夕方や休日などは人混みでごった返し、活気に溢れていた。

 その砂銀通りの中程のところを右に入った路地のところに、宮崎と言う大工さんが大家で、古い木造の、自宅兼アパートになっている一階の一室を私は借りて住んだ。敷金は無し、家賃は市価の半分、但し、日当り不良という絶好の? 条件の室であった。

 二階には、当事務所の顧問先でもある野村司法書士(当時はまだ勉強中)が住んでいた。大家の宮崎さん宅には、近所のおばさん達が時々お茶のみ話に来ており、休日など、二階の野村君と一緒に御馳走になった。

 隣の部屋の夫婦は、奥さんが船橋あたりのストリップ劇場で働いていた。亭主が炊事、洗濯、入学前の男の子の面倒を見ていたが、時々、昼間から酒を飲んでいることがあって、そんな日の夜中には、仕事から帰って来た奥さんが、馬乗りになって(想像)「コノバカヤロウ!」という罵声と引張たく音、亭主の情けない「カアチャン、カンベン!」という声が壁越しに聞えてきた。砂町は恐ろしく生活の臭いのする町だった。

 こんな環境の中で、仕事に通う毎日だったが、少しずつ顔見知りも増え、ある日、趣味のサークルに誘われ、参加した、六~七人の中に混って、他の若者より、落ちつきはらっている男性が座っており、ニコニコしながら「山川進です、よろしく。」と自己紹介した。『煙突のある町』という小説の舞台になった、この砂町にあこがれて移り住んで来たと彼は言った。

 その後、私は、「山川進』がペンネームで、鈴木幹男が本名であることを、ずーっと後になって知った。そして、その頃、「砂町文芸」というガリバン刷の雑誌を「山川 進」と一緒に編集していた、伊藤妙さん(夫人)が恋人であることを知ったのも、しばらくしてからだった。

 すずき社会保険労務士事務所がJR亀戸駅東口に開設したのは、それから八年後のことである。

1998年 さかみち 6号より
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