ネット・さかみち

さかみちの街/千住 貞夫

 私の母は現在93歳、昨年足の障害で歩行不能となり、今では八王子の老人病院での入院生活を送っております。週に一度休日に病院へ家族と共に行き、話し相手になるのですが、母が35年前に上京して以来の記憶は、老人病の影響もあるのか殆ど薄れ、私と母の故郷、北海道小樽の思い出話ばかりであります。ついつい私自身も、昔の思い出にふけってしまうのです。その思い出の小樽の街を紹介してみましょう。

 小樽は坂の街、小路の街、前面は日本海、背後に天狗山等をひかえ、住宅街はオコバチ川(妙見川)沿いに市街が開け、山をけずり斜面をはい上って広がりました。当時、人は好き勝手に坂をけずって家を建てました。又、その隣の家を盛土をし、ちょっと出っ張らせて家を建てたのです。道は曲がり放題、小路と小路の間は迷路のような細道でつながれています。深い雪に坂で見通しはきかず上ったり下ったりです。

 私自身、上京後既に四十年、勿論現在の観光名所でもある石原裕次郎記念館、ガラス工場、運河のガス燈などは私の在樽時では全く考えられなかった事です。記憶に残っているのは、坂道を下って小樽駅頭より港に至る市街地、日本銀行小樽支店に連なって港沿い横一線に広がる今よりも長い運河、そこに連なっている石造倉庫等であります。夏場の思い出はなく、雪一色に広がる小樽の街並みと雪かきで汗を流した冬の毎日です。

 両側に雪をかぶって立ち並ぶ古い住宅、つららが滝のように落ちかかる木造建て。見上げるとトタン屋根から三角窓が突き出ている。私自身、義務教育以前の時代でありましたが、当時の小樽は貧富の差が激しい街でもあり、中学校、女学校(現在の高等学校)などと無縁の同世代をおくった人々も数多いのです。小学校の机を並べて片や雇い主の子供、片や使用人の子供がいました。一方では、樺太とのつながりが深く林産物、水産物等が多く移入されており、これらの物資を扱う商社は小樽経済界の中核をかたちづくっていきました。こうした拠点樺太を失った事は、小樽の斜陽化を増し、経済界への打撃も大きく、戦前戦後とでは商人地図が塗りかわったゆえんとなりました。

 又、市内には市場が数多くあります。各町内に必ず一つはあり、坂の街の市場はやはり全体が坂、そこに鮮魚、干物屋、お惣菜屋、豆屋等とに角何でもあるのです。又、今でこそ小樽の中心街花園町にある寿司屋の数々、今でこそ観光名所の一つともなっていますが、私の幼少時は、この辺は料亭の一角であり、花街として栄えていたのです。雪の日、狭い小樽の坂道に人力車で昇り降りしている芸者衆の姿が、なつかしい思い出となっています。

 でも私にとって一番の思い出は坂道の上にある花園公園から見下した星空の下、運河の先にある小樽のふ頭、港の真中にある大きくそびえ立ち赤く点滅している二本の灯台であります。又、海岸には大きな外国の貨物船の明りがまばゆく光っていたのを思い出します。母はこれに伴っての幼少時の思い出話、女学校の友人、先生、勿論その大半は故人となられているのですが、その再会を楽しみにしているのです。

 私は入社以来、社会保険労務士事務所の一員として勉強途上であるのですが、中でも介護の在り方、介護保険の問題等々、我々働く者にとって有がたい制度が実施化されようとしております。勿論高齢者の多い現在、これで満足という結果には程遠いと思います。私自身も身近な問題として老人福祉問題等興味をもって勉強させていただいて居ります。

 政府も国民も、一歩一歩けわしいさかみちを上っていけば、必ずや良い結果が得られます。

 決して、かけ上る事はないのです。まわりを見ながら、ゆっくりとさかみちを上りましょう。

1998年 さかみち 6号より
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