ネット・さかみち

柴犬ジュン/鈴木 幹男

抜けるような青空が広がった5月5日子供の日だった。たまたま硯いた近くのペットショップに、生後45日のジュンがいた。ジュンは、半畳ほどのゲージ(犬の入れ物)の隅で小物の遊び具と戯れていた。私がのぞいていることなど、およそ関心がない風だった。「外に出してみましょうか」、背後から女性店員の声がした。店員に抱かれて出てきたジュンは、店員の胸にしがみつき、僅かに震えていた。店員はジュンに頬ずりしながら、「この子は性格の良い子ですよ」、「この子は骨格もしっかりしています」などと、この子は、この子はを連発し、まるで我が子を紹介するかのようだった

そもそも妻は、犬を飼うことに消極的だった。最近は婦人クラブの地域活動なども始め、なんだかんだと忙がしそうだった。だからジュンが我が家にきたのは、私の思いつき、いわゆる衝動買い(もしかしたらジュンヘの一目惚れだったのかもしれない)に、妻は仕方なしにつきあわされた、そんなところであった。朝晩の散歩、食事の世話、犬小屋の掃除などなど、ジュンは、我が家の生活リズムを一変させた。といっても、それはもっぱら妻のことである。私と言えば、従来通り、仕事中心の生活であるから、ジュンによって一変したわけではない。それでも、私の帰宅を知るとサークル内でパッと立ち上がり、しっぽを振り切れんばかりに振り、耳を後に倒し、喜びを全身で表し、私が手を差しだそうものなら、舌でペロペロと一時の余裕もないように舐めまくる。そんな仕草に私はいたくご満悦だった。

ジュンが我が家にきて1ヶ月ほど過ぎた頃、ジュンはどうやら私をボス、妻を世話係と認識した風であった。犬は自分より上位の者には忠誠心を持って服従するが、そのぶん下位の者に対しては自分が上であることをはっきりと表現する。つまり世話係の言うことを全く聞かないのだ。家の中を所かまわず走り回り、名前を呼んでもどこ吹く風、妻の手や足などに噛みつく、飛びつく、そのわがまま振りは予想を超えていた。犬はその先祖狼の行動、習性を今も引き継いで、自分を含む人間家族を群れと見なし、そのなかで強いか弱いか、自分の上は誰か、下は誰か、が最大の関心事なのだという。

ジュンが妻を自分の子分と勘違いしていたのでは、しつけどころではない。そんなことで、我が家(群れ)で、誰が二番目に偉いか(びりは誰か)を競う妻とジュンとの熾烈な格闘が始まった。厚手のジーンズに革手袋をして、ジュンに立ち向かう漫画チックな妻の勇士には、ただただ恐れ入るばかりだった。

獣医から、Sさんという犬のしつけ指導員が紹介された。Sさんは早速我が家にやってきた。悪役商会の太めの俳優に似た強面のおじさんだった。それでも、訪問者大好きのジュンは飛び上がって歓迎した。Sさんはジュンとの間に距離を取り、しばらくジュンを観察していた。一人で騒いでいたジュンが疲れて座り掛けた瞬間に、「オスワリ」と声を掛けた。さらに、ジュンが自分の都合でこちらに歩き出した瞬間に、「オイデ」と声を掛けた。そして、「良くできたね」「よしよし」と、オーバーに誉めた。ときどき後ろのポケットから褒美のおやつを取り出して与えた。しかも、ジュンでなく、ジュンちゃーんと、目を細めて、猫なで声で呼んだ。ジュンが反応しようものなら、一段と目を細めて、ヨーシ、ヨシヨシと言いながら、褒美のおやつを与えた。ジュンは自分の名前を呼ばれた反応が弱いという。しつけを成功させるには、犬が自分の名前を好きになることが大切なのだという。それには、ジュンと呼ばれたら、楽しいことがある。と印象づけるのだという。間違っても、ジュンと呼んで、叱らない。「できない」と叱りつけるより、「できたね」とほめてやる、のだという。子育ての至らなさを指摘されたようで、しみじみ感じ入ってしまった。。

ジュンは生後6ヶ月になった。人間なら7~8歳だという。やや奥目の濃い茶褐色の目尻がつり上がった三角形の奥目、つやつやした黒い鼻、引き締まった口元、ピンと立った三角耳、くるんと巻いた右巻き尾、かわいらしさの中にりりしさのある風貌になってきた。

ジュンが言うことを聞かないと、寝ても覚めてもぼやいていた妻も、最近は寝ても覚めてもジュン、ジュンと、ジュンのいない生活は考えられない、と言った風である。最近は犬も長生きで、20年ぐらい生きるのも珍しくないという。これからジュンとどんな生活が待っているやら、楽しみなことである。ジュンという名前は、私が18才の頃に見て感動したモノクロ映画「キューポラのある町」で、貧しさにもめげず強く、明るく暹しく生きる吉永小百合演じる少女ジュンの名前を拝借した。私に娘がいたら、ジュンのような娘に育ってほしい、と言う期待を込めてである。

2003年 さかみち 10号より
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