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鰻重とビートルズ/鈴木 幹男

神楽坂、本多横町のうなぎやで、特上の鰻重を食べるのが、夏を乗り切る私の30年来の習慣です。このうなぎや(たつみや)は、昭和の初期に建てられた間口二間の木造二階建てで、いかにも昔の鰻やの店構えです。締まりの悪いガラス戸を開けると、左側にテーブル席が三つ奥に向かって並んでいます。私は、のれん越しに真ん中のテーブルをのぞいて、先客があれば、しばらく辺りの路地をぶらついてから再び立ち寄り、それでも客があれば日を改めることにしています。私がこの鰻やの真ん中のテーブルに何故こだわるのかというと、それは、ビートルズのジョン・レノンがニューヨークで暗殺(1980年12月)される半年ほど前にオノ・ヨーコと鰻重を食べたテーブルだからです。

1966年6月30日、ビートルズの日本公演が九段の日本武道館で行われました。ビートルズの影響を受けた若者たちの熱狂ぶりはすさまじく、JR飯田橋駅から事務所前の早稲田通りを異様(最近は見慣れたけれど)な若者の行列が続き、周辺は約六千人もの警察官が警備に当たっていました。会場入り口の大安門手前の堀には厳重なロープが何重にも張られ、興奮したフアンが堀に飛び込むからと、堀の中にはゴムボートまでも浮かべられていました。武道館という神聖な武道の場で、ロック・コンサートなど、もってのほかだと、抗議運動の宣伝車が集まり、大さわぎになっていました。

公演会場と直線距離にして百メートルのところに、騒ぎとは対照的な静けさの学生寮、東京学生会館がありました。銀杏、楠などの森に包まれたこの学生寮は、学徒出陣から東京の焼け野原に帰ってきた学生が、敗戦で不要になった近衛師団の兵舎を見つけて住みついたことに始まり、東京の30ほどの大学の学生約六00人が住んでいました。高い天井、広い廊下、食堂、読書室、洗濯乾し場など、至る所に戦争の余韻を色濃く残した学生寮で、どちらかというと当時の貧しい学生が多く住んでいました。私はこの学生寮で、アルバイトをしながら夜間大学に通う20才の青年でした。

ビートルズが世界中の若者に嵐のような熱狂を巻き起こした1960年代後半は、ベトナム戦争(1960年~1975年)の泥沼化による重苦しさが社会に、とりわけ若者に重くのしかかっていました。戦争に反対する集会が世界中で開かれ、ジョン・レノンのベトナム戦争に反対する発言や行動がマスコミで報道されていました。ビートルズは音楽でなく騒音だ、というのが当時の私を含めて一般的な大人の理解でした。私は、会場周辺の物々しい警備と、続々と集まってきたビートルズフアンの若者の異様な様相から、拒絶感を感じつつも内心、若者をこれほど熱狂させるビートルズとは何者だろうか、と強烈に感じていました。 ビートルズの日本公演から40年、ジョン・レノンが亡くなって25年の年月が流れました。音楽音痴の私にとって、ビートルズ音楽の全体像は未だによく理解できません。しかし、ビートルズ解散後のメンバー四人の個性的な生き様、特にジョン・レノンの戦争を憎み、平和を求める社会的な発言・行動には強い共感を感じてきました。

土用丑の日から数日経った遅い昼飯時に、今年もたつみやに鰻重を食べに出かけました。食べ終わって店を出るとき、「イラクで自爆テロ、多数の死傷者」とテレビが報道していました。ジョン・レノンが今の時代に生きていたら、イラク戦争の現状に、どんな発言をし、どんな歌を作ったろうか、そんなことを考えながら本多横町から神楽坂に出ると、神楽坂は祭りの準備で、いつもよりも賑わっているようでした。

2005年 さかみち 12号より
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