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個別労働紛争の増加~その背景と企業の対応策~/中川 美弥

「個別労働紛争」―この言葉がこんなにもクローズアップされ、労使における新たなキーワードとして浮上してきたのはここ数年ではないだろうか。
 もちろん、労使の対立は、太古の昔から「使う者」対「使われる者」といった構図はあったし、資本主義社会の発達により、それはより顕著に現れてきた。労働基準法(以下「労基法」と言う。)が昭和22年に制定されるまでは、労働者は使用者の言うがままに厳しい労働を強いられてきた。より資本力のある使用者側が経済的弱者である労働者を押さえつけていたのである。労基法はそれを是正すべく、労働者の権利を憲法25条の生存権、27条の勤労条件の基準を具象化することにより実現し、使用者の守るべき義務を規定することによって、その権利濫用を押さえるという社会法、特別法、強行法規としての役割を果たしてきた。

労基法はご存知のとおり、労働条件について最低基準を定めている。しかし、これは労働者側から見る感覚と使用者側から見る感覚とがかなり乖離していると私は考える。私が社会保険労務士として多くの経営者の方々と接している中で感じるのだが、企業は、当然資本主義社会の競争にさらされているわけで、特に私が接することの多い中小企業は現在の未曾有の不況下で淘汰されることになる。生き残りに必死な状況で、他の企業に打ち勝つためには(というよりは企業が潰れないためには)、労働者に、より働いてもらいたい、余剰人員は削減せざるを得ないと思うのは至極当然であろう。一方で労働者もこの不況下でやめさせられては次に働く場所がない、また、ワークライフバランスを重視する時代で働く時間を増やされては心身ともにきついといった、まさに真っ向からの対立となっている。
したがって、使用者側からすれば、労基法の最低基準は、資本主義社会における競争を阻害する難しい基準であるし、労働者側からすれば、これは最低であって、もっとよりよい環境を企業は作るべきだと考えている。

私は仕事上、使用者側で物事を考えることが多いが、自分も労働者であるゆえ、労働者の気持ちもよく分かる。労基法が昭和22年という時代背景のもとに制定されたものですでに現代とマッチしていない部分もあると思う。ただ、労働法の世界では判例法も重要な役割を果たしているし、それを踏まえて、労働契約法が2008年3月1日に施行された。ある意味、使用者側からすれば、厳しい状況かもしれない。しかも、労働者の権利意識の向上を反映して、2001年10月1日には個別労働関係紛争の解決の促進に関する法律、2006年4月1日には労働審判法、2007年4月1日には裁判外紛争解決手段の利用の促進に関する法律が施行され、より労働者が訴えやすい環境が調ったわけである。
 そうなってくると、使用者側はどのような防衛策をとっていけばよいのかを考える必要が出てくる。会社の身を守るもの、それは、就業規則である。労働者が10人未満だから規則はいらない、と考えている会社もある。しかし、労働者が少ないからといって、トラブルが少ないとはいえない。トラブルは突然起こるものであり、特に、規則や決まりごとのないところからは起こりやすい。例えば、個別労働紛争で一番件数の多い解雇問題では、使用者が労働者を解雇したい場合、どのような根拠に基づいて解雇できるのかが重要となる。就業規則があれば、この規定に基づいて解雇する、と言えるが、なければ民法、労基法、判例法の一般原則がその拠り所となる。解雇については、それまでの経緯、状況、規則といった多くの事項から総合判断して合理的とみなされた場合に有効となるが、その判断材料のひとつである就業規則がないということは、それだけ、会社にとって不利となる。
 トラブルの際、会社がどれだけ規程類を整備しているか、どのようにトラブル回避の措置をとってきたかがきわめて重要となる。契約は人を雇い入れるとき(内定を含め)から始まる。内定通知書、労働条件通知書、契約書、こういった書面をきちんと作成し労働者に渡し、会社で保管しているだろうか。配置転換、降格、降級、労働条件の変更の際も然りである。退職にあたっては、退職届、解雇予告通知書などは必ず取っておく。そのほか、最近はメールも重要な役割を果たす。メールでのやりとりも最新の注意を払って行わないと、あとで不利な証拠にも有利な証拠にもなりうる。労働問題はとかく、言った、言わない、のやり取りになりがちである。最近は労働者もインターネットの普及に伴い自己の権利を主張すべく、様々な知恵をつけている。残業時間を自分でメモしておいたり、パソコンのログイン、ログアウト時間をプリントアウトして自分の働いた時間の証明を残したりする。退職届を出したら不利になるから出さない、という労働者もいる。

使用者は経営だけでなく、もっと労働問題に関心を持って欲しい。昔のように労働者は弱くない。時代の変化についていけず、従来のやり方で労働者と接していたり、何も書類を作らない、残さないといった状況ではトラブルを引き起こす元となり、トラブルが起こってしまった後も不利となる。実際、私があっせん業務で受けた事案でも、使用者が守るべき事項を守っていなかった部分を指摘され、このような管理不十分な会社なら違法行為を起こしうるだろうという、解決に不利な判断材料とされたこともある。

自己防衛は大切である。私たち社会保険労務士は労働、社会保険手続を代行するだけではない。労働問題の専門家として、事業主の役に立ち、会社を発展させていきたいと考えている。経営の三大要素のひとつである「ヒト」を上手に使い、育て、無用なトラブルを避けること、これこそが企業を飛躍させるカギとなる。ぜひ、当事務所担当者と労務問題について話し合って欲しい。会社にとってよりよい方向へ向かうものと確信している。それでも、不幸にもトラブルであっせんといった事態になった場合、早急にトラブルを解決し経営活動に専念するためにも、当事務所にいる特定社会保険労務士をご活用いただきたい。そして、こうした事態が再び起こらないための規程、人事制度を担当者と事前に、また、事後においても整備していくことで個別労使紛争の防止、ひいては会社の発展につながるであろう。

2009年 さかみち 16号より
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