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橘香苑の思い出/谷口 一恵

 学生の頃、橘香苑(きっこうえん)という名のアパートに1年間住んでいた。大家さんがみかん農家であることから、この名を付けたと聞いた。
「築30年でお風呂トイレ共同」と聞けば、今どきの若者は敬遠するかもしれない。私も初めに紹介されたときは驚いた。しかし、東向きの大きな窓から射す朝日と、狭いながらも長年使い込まれ、随時工夫して改装された間取りは住み心地が良く、すぐにそこが好きになった。
 家には、「気」が宿ると思う。私は自分の部屋探しをするとき、直感的にその部屋が持つ運気を判断することができる。橘香苑では、部屋に入った瞬間に心地良い空気を感じることができた。実際そこに住んだ1年間には良いことがたくさんあったように思う。
 住人同士もすぐに仲良くなった。お金のない学生時代、よくしたのが、持ち寄り鍋パーティー。各自が冷蔵庫の残りものを持ち寄り、思い思いに鍋へ放り込むのだ。実家から届いた大根、冷凍していた油揚げ、少し残った鶏肉、1本残ったちくわ、窓の下に生えている野草(ハーブ)などを一緒に煮込むと、残り物でもそれなりの味になるのだ。限られた材料しかなくても、工夫して、楽しみながら作っていた。何よりも、友達同士でわいわいいただくお鍋は格別だった。

 隣室のりんちゃんが丁寧に作るアップルパイも忘れられない。
 私は今でこそ早起きだが、学生時代は朝ぎりぎりまで寝ていて、急いで支度をして教室に駆け込むという生活を送っていた。夜遅くまでアルバイトをしていたせいでもあるのだが・・・(←言い訳)。
 ある朝、私は寝坊して、1時限目の始まる15分前に目を覚ました。あわてて身支度をして、朝ごはんを食べる時間もなく、部屋を飛び出した時、りんちゃんが自室の扉を開けて・・・
「これ食べて。アップルパイ。朝ごはん食べてないでしょ?」
 手の中でほのかにあたたかいアップルパイ。中のりんごがやさしい甘さでほんのりシナモンの香り。練りこみパイだというパイ生地は、バター控えめで、寝起きの胃にもすんなりと収まった。そのアップルパイのおかげで、午前中の授業に集中することができた。
 帰宅後、彼女に聞いたところ、早起きをしてりんごを煮、手作りのパイ生地をのばすところから始めたらしい。

 「焼きたてを、美味しい紅茶と一緒に朝ごはんにするの」

 手作りのアップルパイでゆったりとした朝食、なんて優雅なのだろう。
 その後、いつもより10分早く起きてみるようになった。朝の光が気持ちいい。時間に余裕があるので、部屋のちょっとした掃除ができて、すっきりした気分!
 私の起床時間はどんどん早くなり、現在は午前5時半には目が覚める。ゆっくりコーヒーを淹れてのんびり過ごす。朝ごはんもひと工夫し、ゆったりと朝の時間を楽しんでいる。

 橘香苑で暮らした1年間で、お金をかけずに工夫することの楽しさと、少しだけ早起きをして、朝ゆっくりと過ごす気持ちの良さなど、たくさんの幸せの作り方を学んだように思う。
 こういうささやかな幸せの積み重ねで、人生は豊かになるのかな、そんなことを考えながら、私はアップルパイを焼いている。

2011年 さかみち 18号より
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